元中日ドラゴンズ投手で、決め球のスクリューボールで
タイトルを総ナメにした、山本昌(やまもと まさ)さん
が【アナザースカイ】に出演されます。
全盛期の頃の、山本昌さんの事を覚えている方は
分かるはずですが、あの曲がり過ぎる
スクリューボールはトリハダものでしたね!
バットが当たる気がしませんでしたからね~
山本昌さんは、昨年の2015年に50歳で現役を引退されました。
そんな、山本昌さんの活躍した理由が知りたくなったので
調べてみました。
今回も私と一緒に一瞬で納得しましょう!
※追記
山本昌さんが5/18放送の【ナカイの窓】で趣味にハマりすぎ芸能人
として、中居さんと趣味のラジコン対決をするそうですね!
これは必見の内容になりそうです^^
山本昌さんの気になる5つの事
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山本昌さんの経歴等プロフィール
出典元:http://www.tokairadio.co.jp/
- 名前:山本昌(やまもと まさ)
本名:山本昌広(やまもと まさひろ) - 生年月日:1965年8月11日
- 出身地:東京都
- 身長:186cm
- 最終学歴:日大藤沢高校
山本昌さんは1983年に中日ドラゴンズに
ドラフト5位で入団しました。
そして、山本昌さんの、通算成績は3348回投球。
219勝165敗 2310奪三振 防御率3.45
2006年の阪神戦では、ノーヒットノーランの
完全試合を達成!
2014年には、日本プロ野球球界史上最年長勝利投手記録
(48歳4か月)の最年長記録を更新するといった、
素晴らしい成績を残されています。
こんなにスゴイ結果を残しているから、
きっと、中日ドラゴンズに入団したルーキーの時から
活躍されていたのだと思っていましたのが、
そうではありませんでした。
山本昌さんは、プロになりたての頃は、
ほとんど出番も無く、ケガにも悩まされて、
進退も危なくなる、まさに崖っぷち状態でした。
そんな、山本昌さんの人生を変えたのはある人との出会いでした。
山本昌さん、恩人のアイク生原さんはどんな人?
山本昌さんは中日ドラゴンズ入団5年後に、
目覚まし活躍が無かった事もあるかもしれませんが、
ロサンゼルス・ドジャーズに野球の交換留学する事に。
留学とは聞こえはいいですが、体の良い戦力外通告ですよね。
留学が終わっても山本昌さんが、ドラゴンズに戻れる
保証は何もなかったのですからね。
そんな時に、恩人のアイク生原さんと出会います。
出典元:http://column.sp.baseball.findfriends.jp/
本名は生原昭宏(いくはら あきひろ)。
アイク生原さんは、1937年に福岡県香春町で
生まれました、高校、大学と野球部で活躍され、
卒業後は、指導者を目指されて25歳の若さで
亜細亜大学野球部の監督に就任しました。
アイク生原さんはこのポジションに満足せず、
どうしても本場アメリカで野球や経営を学びたいと、
1965年に単身渡米しドジャースの職員になりました。
クラブハウスの掃除係のような底辺の立場からスタートして、
さまざまな部署を経験して会長補佐まで昇進しました。
アイク生原さんは、メジャー球団の要職についた日本人第1号との事です。
年齢の近いピーター・オマリー会長とは、兄弟のような感じで、
ともに仕事に携わり、ピーター会長は
「アイクは私よりドジャースのことを知っている」
と言わせしめる程。只者ではないですね~
山本昌さん、必殺「スクリューボール」を会得!
そんな、アイク生原さんは山本昌さんへ
父親の様な存在として、厳しく時には優しく接したそうです。
特に、野球に対する真摯な態度が、山本昌さんの
心に響き、忘れかけていた野球に対する情熱が再び蘇りました。
そして、2人3脚で野球を続け、決め球の
「スクリューボール」を会得します。
ただ、惜しむべくはアイク生原さんはもうこの世にはいません。
55歳の若さで他界しています。
その葬儀に参列した、山本昌さんは棺の前で泣き崩れ
葬儀に参列した人達に担ぎあげられなければならない程
ショックを受けられたそうです。
アイク生原さんの事をメンターとして、どれだけ慕って
いたのかが伝わってきましたね。
中日ドラゴンズの絶対的エースにこんなエピソードが
あったとは知りませんでした。
山本昌さんの魅力はまだまだ続きます!
山本昌さんの現在や、引退後の年収については次のページへ